2010年03月20日

底辺短編小説

 「春の朝のうpに」


 夜が明けるのが少し早くなったかな。茫漠とした思考を巡らせながら、男はモニタを一直線に見つめていた。マウスとキーボードでいつもの儀礼的なやり取りをいくつか行った後、なんの興奮も感動もなく、ただ事務的な処理として、男は動画投稿ボタンを押下した。

 振り返ると、彼の妻が腕を組んで静かに直立していた。男を一瞥し、モニタに目を移すと、そこには先ほど男が投稿した動画「メルトを逆立ちして歌ったよ!」が再生されているところだった。
「また..うpしたの?」と彼の妻は嫌悪感を隠さずに言った。
「ああ、今回のはいけると思うな。おかげで腕が筋肉痛で..」
「ねえ、いい加減うpをするのはやめてよ。あなたにそんな余裕ないでしょ?それにマイリスだって、ずっと一桁じゃないの」
「たまたま調子が悪かっただけさ。ずっと前にうpした逆立ちシリーズは二桁いったこともあるし...」
「そんなことはどうだっていいのよ!」
 彼の妻が叫び、沈黙が流れる部屋に、ヘッドフォンからこぼれ落ちた男のメルトの歌声だけが微かに響いた。

「そんなことはどうだっていいのよ」彼の妻は大事なことなので二度言った。
「そんなことより早く働いてよ。昨日だって..花子は給食費を払えなかったことを理由に学校でイジメられて帰ってきたのよ」
「俺が..俺が人気うp主になればイジメだってすぐなくなるさ」
 男は立ちあがると、逃げるようにドアを開け、まだ冷気を帯びた朝の町を、一人無関心に彷徨い続けた。


 歩き飽きた頃に吸い込まれた公園のベンチで、男が虚空を見上げていると、いつの間にか全裸の老人が隣に座っていた。不思議と違和感はなく、むしろ全裸でない方が不自然なほどの、そういう種類の全裸だった。
「なにか、悩んでおられる?」
 老人の質問が自分に向けらたものだと気付くのに、男は数分かかった。
「別になにも悩んじゃいませんよ。ただ周囲が分かってくれないだけで。ニコ厨達は全然再生してくれないし、コメントだって...」
「分かってくれん、それはそうでしょう。誰だって分かるはずがない。あなただってそうだ。勿論わしだって、何故わしが全裸なのかさえ分かっておらんのですからの」

 男が老人の言ったことをしばらく反芻している間に、全裸の老人は霧散し、公園には男だけが取り残されていた。少しだけ老人はひろゆきに似ていたかな、などと男は考えると、やがて立ち上がり、重い脚をコントロールしながら、長い帰路に就いた。


「何を書いているの?」といつもとは違う音色の声で、彼の妻は尋ねた。
「履歴書を..何社か送ってみようと思って」と男は少し恥ずかしそうに言った。
「ねえ、趣味の欄に "うp"って、それはどうなの?」と笑いをこらえながら彼の妻は言った。
「やっぱり変かな」と男も笑って答えた。


 久しぶりの一家そろっての食事のあと、男は少し肩を縮ませて言った。
「次の仕事が落ち着いたら...またうpしてもいいかな?」
「いいに決まってるじゃない。そのときは、わたしが一番にマイリスしてあげる」と男の妻は愉快そうに笑った。
「...そういえば、君が僕の動画をマイリスしたことってあったっけ?」と男は尋ねた。
「ええと、随分昔はマイリス余裕でした、だったけど、最近はそういえば無いわね」

 男はそれを聞いて、自分の心を覆っていた氷が、春の夢のように瓦解してゆくのを感じた。ああそうだったのか。
「どうしたの?」と男の妻は不思議そうに聞いた。
「いや、僕が何も分かっていないことがよく分かったんだ。それと、一つだけはハッキリと分かった。自分がずっと、何を欲しがっていたのかをね」
「ふーん。それで何が欲しかったの?」
「君には教えない」と男は微笑みながら言った。


 男の部屋では、パーソナルコンピュータのファンの音が今日も律儀に響いている。その床に並ぶ踏まれ飽きた畳には、彼が逆立ちをしながら歌ったときの手のひらの跡が、まだ微かにその形を残していた。


<おわり>


posted by トモナシ at 20:13| Comment(39) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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