2012年09月01日

最近のニコニコ動画

 「最近のニコ動はニコニコできない」というのは本当なのだろうか。少し「最近のニコ動はニコニコできない」について本気出して考えてみようと思う。

 まず「最近のニコ動はニコニコできない」と言っている人は「最近のニコ動はニコニコできない」と判断できるほど最近のニコ動を見ているのだろうか。ニコ動よりもxvideosを見る時間の方が長かったりしないだろうか。それでは公正さに欠けるのではないか。

 あるいは「最近のニコ動はニコニコできない」から最近のニコ動の滞在時間が減りxvideosを見ているのだ、と反論されるかもしれない。その場合、この「最近のニコ動はニコニコできない」により何を訴えたいのだろうか。xvideosこそが真のニコニコ動画だ、ということだろうか。

 僕はこれを怨嗟の声だと捉えている。居場所を奪われたと感じた者達の嘆きである。
 勿論これは大きな思い違いであり、わりとウザがられる言動であると思う。しかし僕はそれを責める気にはなれない。インターネットであり、ニコニコ動画である。かつてのその場所に集った者達に、満たされた人間がどれほどいたのか。若干キモい感じがデフォルトであったようにも思える。あるいは物凄くキモかったかもしれない。いずれにせよ、居場所を安易に見つけられるゆるふわシャイニングガールではないのだ。代替を探り当てるのにどれほどの労苦が必要になるのか。粘着するのが当然だ。

 「それはランキング上位ばかり見ているからだ。これだけ動画があるのだから、自分に合ったものを見つけ出していけばよい」とおっしゃる人もいるだろう。ナンセンスだ。そんな素敵な思考回路の持ち主なら、最初から呪詛の声を吐き出したりしない。憎いのだ。彼等は、ただ憎いだけなのだ。どんなにアニメが面白く、フィギュアをペロペロする事に満足していても、メインストリームの煌めきが憎いのだ。テニスサークルが憎いのだ。メインストリームに所属していない自分が、間違っている(と思われている)のではないかという劣等感に苛まれるのだ。反論したいのだ。動画サイトという世界だって同じだ。自分が近寄れず、自分の見える場所で、ワッショイワッショイ楽しそうにしているのが気に入らないのだ。しかもそれはかつて、自分が居たはずの場所なのに。

 それにメインストリームは厚くなる。そこに人や物が集まる。需要に応じて供給は熱を帯びる。老人が選挙の票の多くを握れば、政治家は老人に向けた政策を積極的に打ち出していく。その恩恵に享受できない者はつぶやくのだ、「最近の政治は駄目だ」と。

 これまでもインターネットのコンテンツは同じような事を繰り返してきた。それほど長くない周期でだ。「最近のニコ動はニコニコできない」も、なんら特筆すべきことではない。結局我々は、新しいインターネットを見つけるか、リアルワールド中心にやっていくか、「最近のニコ動はニコニコできない」と文句を言いながらも粘着していくか、いずれかしか対処法はない。最近のニコ動が、昔のニコ動に比べて劣化したわけではないのだから。


 ただ、「ニコファーレ」はないと思う。

posted by トモナシ at 00:16| Comment(19) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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